2月21日(火) 先負
旧暦 2月2日
月齢 0.8 既朔 (大潮)



<行 事>



<過去の出来事>

日本初の日刊新聞「東京日日新聞」が創刊(1872年)

日米新通商航海条約調印。関税自主権の確立(1911年)

国民党左派と共産党が武漢国民政府樹立(1927年)

天皇機関説の美濃部達吉が襲撃されて負傷(1936年)

食糧管理法公布(1942年)

ベルリンで世界平和評議会第1回総会開催(1951年)

黒人指導者マルコムXが暗殺される(1965年)

静岡県の寸又峡温泉で金嬉老事件(1968年)

ニクソンが米大統領として初めて訪中(1972年)




<記念日>

国際母語の日
国際教育科学文化機関(ユネスコ)が1999年11月17日に制定。国際デーの一つ。 1952年、当時はパキスタンの一部だったバングラデシュで、ベンガル語を公用語として認めるように求めるデモ隊に警官隊が発砲し、4人の死者が出た。バングラデシュでは、独立運動の中の重要な事件の一つとしてこの日を「言語運動記念日」としていた。



<今日の雑学>

自由人・夏目漱石
1911年2月21日、夏目漱石は博士号授与の通知を辞退したが、文部省は了承せず、物別れに終わった。これは漱石の気骨を示す有名なエピソード。漱石は権威、権力、金力といったものは大嫌いな自由人で、叙勲はもちろん、お金にも縁がなく、一生借家で過ごした。そんな彼は小さいころから「変人」扱いされてきたが、そもそも筆名からして負け惜しみの強い頑固者を表す故事「枕流漱石」に由来している。文壇と交わることもなく、内閣総理大臣・西園寺公望が自邸で催した文士の会の招待でさえ2度も断っている。この会へは、森鴎外、幸田露伴、泉鏡花、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋らが出席。欠席したのは漱石のほか坪内逍遥、二葉亭四迷くらいだった。同じ非(反)自然主義の文豪でも、胸いっぱいに勲章をつけて肖像写真を撮っている鴎外とは好対照だ。