4月17日(月) 仏滅
旧暦 閏2月27日
月齢 26.4 (暁月) (若潮)


<行 事>
土用


<過去の出来事>

  • 日光の杉並木完成(1648)

  • 日清戦争の講和、下関で調印(1895)

  • 地方自治法公布(1947)

  • 東宝労組スト開始。撮影所に籠城(1948)

  • 伴旗祭(石川県・〜18日)

  • 徳川体制を確立した徳川家康、大往生
    江戸幕府 250年の基礎を築いた徳川家康が、1616年(元和2)のこの日、その生涯を閉じた。「啼かずんば啼くまで待とう時鳥」は家康の人柄を偲ばせる一句として有名。家康が語った人使いの鉄則は、「人の得意とするところを見抜け、ひとりの相手に多くを望むな、物頭・奉行・代官たちを度々交替させるな(勤めが短いと職務の細部まで目が届かず、下役の者ひとりひとりの才や気質が飲みこめない)」。また、家康は家臣の行状の良し悪しに口出しせず、自分で気づくのに任せていたという。

  • 恐竜の卵の化石、初の発見
    1923年のこの日、米動物学者ローイ・チャップマン・アンドルーズがゴビ砂漠へ向けて、北京を旅立った。博士は、5年に及ぶこの大旅行中に、恐竜の卵の化石を25個   イラスト・発見。かつてゴビ砂漠は植物が生い茂った肥えた平野であり、大きな湖もあったことを突きとめた。


<記念日>

無し


<今日の雑学>
徳川家康の死因
1616年4月17日、徳川幕府初代将軍・徳川家康が死去した。死因は鯛の天婦羅の食べ過ぎだといわれている。けれども、この説はあまり信用できない。確かに家康は死ぬ3カ月前に、家光の元服式に備えて身体を鍛えるため鷹狩りに出かけ、その夜に鯛の天婦羅を初めて食べている。家康を訪ねてきていた京都の茶屋四郎八郎が、当地では魚を揚げる料理がはやっているといったため、大鯛2尾、甘鯛3尾を取り寄せて食べたというのだ。そして、家康はその毒にあたって床についたというけれども、死んだのは食べてから3カ月も後のこと。鯛の天婦羅を直接の死因とするには無理がある。家康は胃癌だとする説があるが、この説のほうがまだ信用できるかもしれない。